「困り」について
「困ったなぁ」「参ったなぁ」「どうしようかなぁ」
日常的にこんな言葉が出てくる人、いますね(わたしです)。実際にそのとき、その瞬間は困っているんです。
意識せずとも出てきたその言葉には、その状況に上手く対処するにはどうしたら?という猶予を求めるような感覚や、対処法を探る過程や、真っ白になってしまっている状態や、色々なものが含まれていると思います。
それが周りに誰かほかの人がいる状況であれば、それは同時にその誰かに向けた「サイン」でもあります。意識、無意識に関わらず、その人は今困っていて、手を貸してほしい、という状況なのですね。もちろん、サインを受け取った側がどうするかというのはまた別の問題です。状況が許すのであれば手を貸してあげるかもしれないし、自分も手一杯であれば黙殺することもあるでしょう。「大人対大人」で「仕事」という場であればもしかしたら後者の対応の方が多いかもしれません。
では、子どもから「困ったなぁ」のサインが出てきたら?
状況を把握できる立場で、何に困っているかも分かっている立場の人であれば、さっと手を貸してあげるかもしれません。サインを出していた子どもは満足し、何事もなかったように自分のやりたいことに戻るでしょう。ご家庭であればよくある日常の風景ではないでしょうか。
さて、支援する立場の人間だったらこの状況にどう対応するでしょう。
わたしのような塾という立場で子どもを支援する人間としては、どうするか。突っ込んだ質問をして「何に困っているのか」とか「どうして困っているのか」とか、そんな5W1H的な質問をします。その事によって、その子の中にある混沌から「誰かに伝えたい何か」を引っ張り出すのがわたしが塾という場でするべきことだと思うからです。
当然質問の内容はその子の知識や理解や状況に応じたものになりますが、例え何に、どうして、どのように困っているかが分かっていても、聞きます。やり取りの中で「伝える」ことの重要性や、伝わりやすい表現や、相手との会話の間の測り方や、そんな色々を身に着けて欲しいからです。
学校で支援員をしていた頃なんかは「しつこいなーもー」とか言われたりしつつ、その流れでその子の考えていることや苦手なことや好きなこと、今日学校が終わったら何をするのか、今週末はどこへ行くのか、とか色々な話をしました。話をしているうちに「困った」の中身を忘れている子もいましたが。話をしているうちにひらめいてそのまま走り出す子もいました。がんばってねーなんて言って見送って次の困ったを探しに行く、という案配です。
中には深刻に困っている子もいるわけで、そういう子にはどうすればいいかを一緒に考えながら何となく望ましい(少なくとも学校として望ましくないものではない)対応が出来るよう誘導したりもしました。
今できること
今すべきこと
この先のこと
そして
社会に出るときのこと
今の子どもたちの「困った」をどう解決するかは全て未来に繋がっていると思います。自分で解決するか、誰かに助けてもらうか、当面は先送りするか。どの対応が正解かではなく、どの対応方法をその場で採択するのか。
わたしは常々、子どもたちに色々考えてほしい、と伝えます。少なくとも塾で、わたしと一緒に居るときは、散々に悩んで困って欲しい、と。どんなに困って悩んでも一人じゃない、と。一緒に解決出来ないかもしれないけれど、一緒に悩むことは出来るよ、と。
わたしたち学び舎ゆうでは、子どもたちと一緒に悩んで考えます。
そういう人間がお子様の周りに一人欲しいな、と思ったら是非お声かけください。
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